なんとか雛人形がもういちど見たい、と思いながら眠ったお鶴は、夜中、物目に目を覚ます。
それからどの位たちましたか、ふと眠りがさめて見ますと、薄暗い行燈をともした土蔵に誰か人の起きてゐるらしい物音が聞えるのでございます。鼠かし ら、泥坊かしら、又はもう夜明けになつたのかしら?——わたしはどちらかと迷ひながら、怯づ怯づ細眼を明いて見ました。するとわたしの枕もとには、寝間着 の儘の父が一人、こちらへ横顔を向けながら、坐つてゐるのでございます。父が!……しかしわたしを驚かせたのは父ばかりではございません。父の前にはわた しの雛が、——お節句以来見なかつた雛が並べ立ててあるのでございます。
夢かと思ふと申すのはああ云ふ時でございませう。わたしは殆ど息もつかずに、この不思議を見守りました。覚束ない行燈の光の中に、象牙の笏をかま へた男雛を、冠の瓔珞を垂れた女雛を、右近の橘を、左近の桜を、柄の長い日傘を担いだ仕丁を、眼八分に高坏を捧げた官女を、小さい蒔絵の鏡台や箪笥を、貝 殻尽しの雛屏風を、膳椀を、画雪洞を、色糸の手鞠を、さうして又父の横顔を、……
夢かと思ふと申すのは、……ああ、それはもう前に申し上げました。が、ほんたうにあの晩の雛は夢だつたのでございませうか? 一図に雛を見たがつ た余り、知らず識らず造り出した幻ではなかつたのでございませうか? わたしは未にどうかすると、わたし自身にもほんたうかどうか、返答に困るのでござい ます。
行燈の灯に照らされた雛人形と父の姿。
天井から投げかけられる均質な灯ではない。床上90センチあたりでチラチラと揺れる灯、しかも和紙が周囲に張ってある行燈が投げかける灯は、蝋燭の炎よりも淡かったはずだ。
覚束ない行燈の光が見せる幻。商家の華やかだった暮らしも、江戸という時代も、雛人形とともに失われていく。それを照らすのは、新しい時代のランプであってはならない。
芥川龍之介は、滅びゆく世界を、この行燈の光で映しだして見せたのである。
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(Source: tohoku-epco.co.jp)











